2016年12月30日
年末年始休暇初日 堺市:仁徳天皇陵古墳を拝みたい
年末年始休暇初日 堺市百舌鳥古墳群を歩く

京阪線京橋駅構内の立ち食いそば屋で昼メシ
大阪環状線新今宮で乗り換え、南海高野線堺東で下車
方違神社 ※ 以下コメントは文献より引用
近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え・方災除けの神として知られる。
反正(はんぜい)天皇陵古墳 田出井山古墳


墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15m。墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵古墳より少し新しい5世紀後半頃に造られたと考えられる。




向泉寺 閼伽井跡 史跡 三國山遍照光院


永山古墳


墳丘は段築によって築かれ、全長104m、後円部は径約63m、高さ9m、前方部幅67m、高さ約8mを測る。西側くびれ部に造出しが認められ、馬蹄形の周濠がめぐる。
内部主体、副葬品は不明。現在は宮内庁より仁徳天皇陵古墳の陪塚(※)として管理されている。


※ 陪塚(ばいちょう・ばいづか。陪冢とも記す。)とは日本の古墳時代に建設された古墳の様式。
大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に建設されたとみなされるものを指す。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあると考えられている。
丸保山古墳


仁徳天皇陵古墳の北西の周濠に接して立地しており、同古墳の陪塚と考えられる前方後円墳である(前方部が短い形状から、帆立貝形古墳とも称する)。全長87m、後円部径67m、前方部幅40mを測る。前方部はかつて住宅や農地が存在したため削平されているが、低く短いという特徴を持ち、周囲には周濠がめぐる。


後円部は宮内庁が陪塚として管理しており、前方部と周濠は堺市が管理している。1972年(昭和47年)に前方部と周濠のみが国の史跡に指定されている。
八丈神社


銅亀山古墳


仁徳天皇陵古墳の西南にあり、一辺26m、高さ4.6mの方墳で周濠の有無は不明。古くは堂亀山とも記されていたようです。墳丘は高く、2段築成がよく残るなど残存度は良好で、下段は南側が造り出し状に張り出し長方形を呈しています。昔は古墳の上に高射砲の陣地があったといわれ、頂上はかなり荒らされていて、埋葬の跡もなくなっていると考えられています。
仁徳(にんとく)天皇陵古墳 大仙陵古墳


エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。


日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳、南側の履中天皇陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土しています。


昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。


出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようで、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。


日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上ありますが、塚廻古墳を除いて、主体部の構造や副葬品のわかっている古墳はほとんどありません。


仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっています。


全周2.8kmの周遊路として整備され、南側前方部と西側には遊歩道、南側車道は桜並木にもなっていて、古墳の中に入ることはできませんが、濠の外からでも巨大さを十分に実感することができます。


西側歩道中央部には犬養孝博士揮毫による、仁徳天皇皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)の万葉歌碑があります。


地元では「仁徳さん」「御陵さん」と親しみを込めて呼ばれ、江戸・明治時代には石棺や甲冑などが発見され、その時描かれた絵図が伝わっており、昔は桜の名所として人々に親しまれていました。


拝所は大仙公園側にあり、整然として厳かな雰囲気です。
塚廻(つかまわり古墳

…行きそびれた
孫太夫山古墳


全長56mの前方後円墳(帆立貝式)。後円部径48m、前方部幅約30m、葺石・埴輪を備え、周囲には幅約10mの周濠が復元されている。内部構造については不明。5世紀中頃の築造。仁徳天皇陵古墳の陪塚と考えられており、後円部を宮内庁、前方部を堺市が管理している。古墳名は、かつての所有者・南孫太夫氏より由来。
竜佐山古墳


仁徳天皇陵古墳の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の陪塚と考えられ古墳の全長は67m、後円部径55m、前方部幅30mの前方部が短い帆立貝形をしています。一部の調査では葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたようですが、埋葬施設などについては不明です。現在は前方部とそのまわりの濠を復元して整備され、後円部は宮内庁が管理し、前方部は堺市が管理しています。もと良佐山の字があてられていたようです。
大仙公園
日本最大の仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳を擁する百舌鳥古墳群内に位置する「大仙公園」が「日本の歴史公園100選」に入選しました。
「日本の歴史公園100選」は都市公園法施行50周年を記念して行われた事業で、地域に個性や魅力をもたらす優れた歴史的・文化的資源を保存・承継・活用する公園の整備を推進することにより、観光振興(堺観光コンベンション協会)や活力に満ちた地域社会の実現をめざすことを目的として、優れた事例を対象に選定されたものです。
「日本の歴史公園100選」選定審査会において、資源の歴史性、文化性などの価値だけではなく、これらの資源を活かして優れた景観・環境が形成され、公園として一体性のある大きな魅力を創出していることなどが評価されました。
大仙公園は、仁徳陵と履中陵の間に広がる緑と歴史に囲まれた美しい堺のシンボルパークです。


大仙公園は、堺市の緑化推進の中心である堺市都市緑化センターをはじめ、日本庭園、平成の森など身近な自然とふれあえる場として最適です。


また、大仙公園内や公園周辺には、堺市博物館、中央図書館、自転車博物館サイクルセンター、茶室(伸庵、黄梅庵)など歴史や文化を学び体験できる施設があります。
七観音古墳


履中天皇陵古墳の北側、大仙公園の南入口にあります。鉢巻状の壁で保存されていますが、原形とは少し違うようです。鉄器や武器が大量に発見された七観山古墳(七観古墳)と、名前が似ているのでよく間違えられます。堺市の調査で直径25m、高さ3m程の円墳であることがわかっています。中心部の様子はわかっていませんが、碧玉製の琴柱形石製品が出土したといわれています。
旗塚古墳


大仙公園内にあり墳丘は全長約56m、後円部径約45m、高さ約3.9m、前方部幅約18mの帆立貝形古墳と呼ばれる、前方部が短い前方後円墳です。徳天皇陵古墳などとほぼ同時期に作られた古墳で、2段築成で前方部を西に向け盾形の濠がめぐっています。
本格的な調査は行われていないので、主体部の構造や副葬品の内容や性格などはわかっていませんが、葺石と埴輪があり円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに、盾・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も出土しています。
グワショウ坊古墳


グワショウ坊古墳は、旗塚古墳の東側にある卵形の円墳で、墳丘は2段築成と考えられています。周囲には濠(ほり)がめぐり、葺石と埴輪が検出されていますが、主体部の構造や副葬品は不明です。昭和50年代の公園造成時には、すでに墳丘上部は削平されて平らでしたが、現状は公園整備がなされ、大仙公園の一部となっています。


円墳で径約61メートルという大きさは、仁徳天皇陵古墳の陪塚とされている径約62メートルの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国的にも有数の規模を誇ります。
発掘調査では、規模と西側が張り出した卵形を呈する墳形であること、濠から外側における削平が顕著であるものの古墳の濠埋土は比較的良好に残存する可能性が高いこと、墳丘には「天地返し」とも呼ばれる鱗状層序(うろこじょうそうじょ)による盛土を採用していることが判明しました。遺物は原位置を留めない円筒埴輪、形象埴輪、須恵器、ミニチュア鉄鍬(くわ)が出土しましたが、本古墳の築造時期は、これらの遺物から5世紀後半と考えられます。
原山古墳


鳶塚古墳

銭塚古墳
グワショウ坊古墳の南約100m、府立堺養護学校の敷地内にある前方部を西に向けた前方後円墳です。前方部が削られているために、現状では円墳のような形になっていますが、昭和56~57年(1981~1982年)に大阪府教育委員会の行った調査で墳丘が全長約71m、後円部径約54m、前方部幅約44mの規模で、周濠がめぐっていたことが確認されています。
また、前方部の短い帆立貝形古墳で、濠の中からは円筒埴輪などが出土しています。
履中(りちゅう)天皇陵古墳 石津ヶ丘古墳
石津ヶ丘にある全長約365mの日本で3番目に大きい巨大前方後円墳。仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られ、百舌鳥耳原南陵、ミサンザイ古墳、石津ヶ丘古墳とも呼ばれる百舌鳥耳原三陵の一つです。
百舌鳥古墳群では仁徳天皇陵古墳に次ぐ巨大前方後円墳で、10基ほどの陪塚を従えていましたが、現在は寺山南山古墳など4基が残るのみで、形や出土した埴輪、陪塚の出土品などから仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっています。墳丘の全長約365m、後円部径205 m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3mの規模の日本で3番目に大きい、石津ヶ丘にある前方部を南に向けた巨大前方後円墳です。
墳丘は3段築成で西側のくびれ部には造出しがあり、主体部の構造や副葬品などはわかっていませんが葺石と埴輪があります。一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、平成6年(1994年)に外側に幅10m程の2重目の周濠が見つかっています。江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性があります。
百舌鳥耳原南陵、ミサンザイ古墳、石津ヶ丘古墳とも呼ばれ、現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理しています。古墳がよく見える場所は正面の拝所と東側の濠沿いの道です。
寺山南山古墳

…行きそびれた
いたすけ古墳


百舌鳥古墳群のほぼ中央、仁徳天皇陵古墳の南、履中天皇陵古墳の東に位置する。墳丘長約146メートルで、百舌鳥古墳群では8番目の大きさである。墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。主体部の構造や副葬品などは不明。台地の南端に位置するため、周濠の南側には大規模な堤が築かれている。陪塚は数基あったとされるが、善右ヱ門古墳のみが現存している。
昭和30(1955)年頃、土砂の採集と住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。


この工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われた。伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となった。橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。はげ山となった部分には草が生い茂っているため、いたすけ古墳の航空写真は樹木と草によりまだらな外見となっている。
1980年代に、水質の悪化による異臭に対して周辺の住民から苦情が上がり、池干しとヘドロの除去が行われた。その際に環濠の南西部に沈没していた木造の小型船について調査が行われ、少なくとも昭和初期以前に製造された和船である事が確認された。
善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳


善右ヱ門山古墳は、百舌鳥川北岸に位置する方墳で、いたすけ古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と考えられます。
平成12・15年度の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しましたが、墳丘の周囲には明確な周濠を設けていません。また、テラス上に埴輪列を検出しましたが、その埴輪から5世紀前半の築造であると考えられます。
御廟山(ごびょうやま)古墳


百舌鳥古墳群のほぼ中央、仁徳天皇陵古墳の南東に位置する。墳丘長約203mで、百舌鳥古墳群では4番目の大きさである。墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。発掘調査により、かつては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったとされるが、万代山古墳(もずやまこふん)のみが現存している。
主体部の構造や副葬品などは不明。現在では宮内庁が陵墓参考地に指定している。


2008年に墳丘部周囲の崩落補修、倒木などの撤去工事が行われ、同年11月28日に、宮内庁と堺市がそれぞれの管理区域の発掘調査を行い、29と30日には環濠部に設けられた通路からの一般公開が行われた。その際の測量により、従来は約186mとされていた全長が、約200mである事が確認された。また、江戸時代前期に環濠が農地用水の溜池として利用されていた際に、環濠の拡張工事が行われ、墳丘部が一部削り取られていた事も判明した。
万代山古墳

…行きそびれた
ニサンザイ古墳(御陵山公園)


百舌鳥古墳群南東端にある全長約300mの全国7番目の大型前方後円墳。前方部が大きく広がった姿は古墳群で最も精美で新しい、5世紀後半から末の築造とされ、名称ニサンザイは「陵」が語源と考えられます。


百舌鳥古墳群の南東端にある前方部を西に向けた大型前方後円墳で、墳丘の規模は全長約290m、後円部径約156m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mと全国で7番目の大きさです。3段に築かれた墳丘はくびれ部の両側には造出しがあり、主体部の構造や副葬品は不明ですが、葺石と埴輪のあることが確認されています。現在は一重の盾形周濠がめぐっていますが、昭和51年(1976年)に周囲の発掘調査で外濠のあることがわかりました。


前方部が広くどっしりと安定感のある古墳で、反正天皇陵古墳のほぼ4倍の大きさです。また建造時期もほぼ同じことから、これを反正天皇陵と考えている説もあります。陪塚と考えられる3基の円墳のうち、現在残っているのは聖塚古墳だけです。墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定し管理しています。


ニサンザイは陵(みささぎ)が語源と考えられ、前方部が大きく広がったその姿は古墳群の中で最も精美といわれ、百舌鳥古墳群の中で最も新しい、5世紀後半から末頃に造られたとされる古墳です。


※ ここから個人のコメント
仁徳天皇陵古墳だけ見れればいいと思ってたら、そっこらじゅうに古墳古墳古墳!
いや~疲れた疲れた


仁徳天皇陵は地図で見ればデカいことはわかっていたが、履中天皇陵古墳とこのニサンザイ古墳が圧巻
余り期待していなかった(失礼)のですごく感動した


特に下調べもせず資料も持たず行き当たりばったりだったので、説明や注釈はWikipediaや堺市観光案内のHPより引用した


大和・飛鳥路、埼玉さきたま古墳群も良かったが、大阪にこれだけの史跡が住宅街の中にあることが何よりの驚き


ほとんどの管理を宮内庁で仕切っているらしいが、小さな古墳ほど「これが古墳?」と疑うような管理状態なのは致し方ないのか?


聖塚古墳???

検索しても出て来ない
次回はもっと調べてからにしよう
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